2019年1月、手塚治虫原作の「どろろ」が50年ぶりに新作アニメとして放送開始されています。秋にはアメリカで「Astro Boy」の新作が放送されます。そこで「漫画の神さま」と呼ばれる手塚治虫について、アニメーションとの関わりを主軸にまとめてみました。



手塚治虫の漫画は、パラパラ漫画から始まった


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1928年11月3日。大阪に生まれた手塚治虫は、身体が弱く、運動が苦手な子どもでした。父はカメラが趣味で、当時は珍しい外国製の家庭用映写機でさまざまな映画を子どもたちに見せていました。

 

とくに手塚少年が夢中になったのがディズニー・アニメーションで、「ミッキーの汽車旅行」(1929)などを、何度もくり返し観ていました。試しにアニメーション・フィルムをばらばらにしてみると、たくさんの絵が続けて映されていることがわかり、この原理なら、たくさんの絵を描けば自分でも漫画映画が創れると思いました。

 

そこで手塚少年は、家にある分厚い書物の端にパラパラ漫画を落書きしはじめます。母親が東京出身だったので関西弁が話せず、手塚少年は学校でからかわれることが多くありました。けれど、小学校3年生のときに「ピンピン生チャン」という漫画を完成して仲間に見せると人気になり、次第にいじめられなくなっていったという逸話があります。

 

終戦後、手塚は漫画家としてデヴューします。その後「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「ブラック・ジャック」「ブッダ」「火の鳥」「アドルフに告ぐ」など、700作以上の作品を残しました。手塚は戦後日本の「ストーリー漫画」の第一人者です。さらに漫画の草分け的存在として「漫画の神さま」と呼ばれています

 

手塚の作風はとても幅広いのが特徴です。子ども向けの作品から、青年向けのもの、少女向けのものもあります。医学博士としての知識を生かした医療漫画、SF漫画、妖怪漫画、時代漫画、学習漫画など、ジャンルもさまざまです。

 

特筆すべきは、「生命について」「戦争の悲惨さについて」「差別について」「宗教について」など、人間の内面を深く掘り下げる哲学的なテーマに多く取り組んでいる点です。1945年に大阪大空襲を経験し悲惨な現状を目の当たりにしたこと、さらに医者としての観点からも、深く考える機会が多かったのだと思われます。

 

1953年、手塚は豊島区にある二階建ての木造アパート・トキワ荘に移り住みます。手塚以降、トキワ荘には多くの著名な漫画家が入居したことから、今では「漫画の聖地」と呼ばれています。トキワ荘は1982年に解体されましたが、2020年3月オープンで復元される予定です。

 

トキワ荘の居住者には手塚治虫を筆頭に、寺田ヒロオ藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄)、鈴木伸一石森章太郎赤塚不二夫水野英子など、そうそうたるメンバーが名を連ねています。

 

「お金を貯めて、いつかアニメーションをつくりたい!」


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終戦後、手塚は日本初の長編アニメーション「桃太郎、海の神兵」(1945)という映画に感動し、将来必ず自分で漫画映画を作ろうと決意します。

 

手塚「漫画の場合は止まってる絵ですから、やっぱり絵なんですよね。それが実際に立体的に動き出して、そして、こちらに向かって話しかけたときに、これは本当にこの世に存在する一個の生命体だと。これを観ましてね、ぼくは感動のあまり涙がこぼれちゃったんですよ。恥ずかしいんですけど、それは映画の内容に感動したというよりも、よく日本でこんな素晴らしい技術のアニメーションを作ったという感動だったんですね。で、それでボクもとにかく一生に一度、このアニメーションを1本でもいいからつくってみたい

 

その後、歴史に残る名作漫画を次々と発表した手塚ですが、じつは漫画家になったそもそもの切っ掛けは、漫画家になればお金がたまるから。お金をためて、いつかアニメーションを作りたいとずっと思い続けていたのです。

 

手塚はウォルト・ディズニーを「心の師」と呼び、尊敬していました。戦後にディズニー映画が観られるようになると、「白雪姫」は50回以上、「バンビ」はなんと80回以上も映画館に足を運んだそうです。それは「ディズニー狂い」と自称するほどでした。

 

世界初の連続長編テレビアニメ「鉄腕アトム」の制作に着手


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1961年、手塚治虫プロダクション動画部(後の虫プロ)を設立。手塚は、その頃、急速に普及しはじめていたテレビに注目します。その頃のテレビアニメといえば、5分とか10分の短いものしかありませんでした。そこで手塚は、週1回30分の連続長編アニメ「鉄腕アトム」の制作に取り掛かります世界初の試みでした。

 

当時、30分のアニメーションを作ろうとすれば、1万枚以上の絵を描かなければいけませんでした。それを毎週、限られたスタッフで続けるのは物理的に不可能。そこで手塚が編み出したのが「リミテッド・アニメ」と呼ばれる手法でした。

 

たとえば目だけ、口だけのセルを用意して入れ替えることで目や口が動いているように見せる方法です。さらに歩く、飛ぶなどの一度作った動きをストックしておき、背景を変えることで何度も利用する手法も取られました。

 

それでもスタッフたちは毎日スタジオに泊まり込み、食事とトイレ以外はひたすら描きつづけていました。手塚が低予算で受注していたので、少ない人数でこなすには、そうしなければ間に合わなかったのです。

 

当時、アニメーターはたったの5人だったそうです! 想像するだに大変ですね。漫画を描く合間に、手塚が手伝いに来ることもあったとか!

 

あるとき手塚はスタッフにこう言ったそうです。

 

手塚「これはアニメーションじゃありません。テレビアニメです。アニメーションの歴史のなかで突然、漫画家の手塚治虫が創り出した新種なんです。だからアニメーションじゃなくてアニメなんです。ストーリーをメインに、変な言い方をすると、ついでに動くんです」

 

リミテッド・アニメの手法を取り入れた当時のアトムの映像は、ディズニーのフル・アニメーションに比べればとても粗い動きでした。

 

でもテレビアニメには、アニメーション映画にない優れた点がいくつもありました。複雑な長編ドラマができるし、キャラクターの深い悲しみや喜び、成長をじっくり描くこともできます。人間ドラマを描くのが得意な手塚には、テレビアニメの方が向いていたのですね。

 

どうやら手塚の頭の中では、連載長編漫画がアニメになったものが「テレビアニメ」だと認識していたようです。

 

こんなテレビアニメは、世界中どこにもありませんでした。だから「鉄腕アトム」の果たした役割は、その後、キャラクターの葛藤や成長を描いた良質なテレビアニメがつくり続けられている日本アニメ界にとってとても大きかったといえます。

 

「鉄腕アトム」の最高視聴率は40.3%。大人気になりました。日本で放送を開始した同じ1963年の秋、「鉄腕アトム」は「Astro Boy」の名称で全米26局で放送され、こちらも30%超えの人気となりました

 

「鉄腕アトム」が世界初のテレビアニメだったことを考えると、手塚治虫は「テレビアニメの父」と言えそうです!

 

手塚治虫は挑戦しつづける人


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「鉄腕アトム」(1963)、「ジャングル大帝」(1967)、「リボンの騎士」(1967)、「どろろ」(1969)、「海のトリトン」(1972)などのメジャー作品を多く手掛けるかたわら、手塚が「商業アニメーション」に対して「実験アニメーション」と呼んでいた短編の非商用アニメーションも手掛けています。じつは虫プロを設立したのは、この「実験アニメーション」を作るためだったのだとか。

 

げんに「ある街角の物語」(1962)は、虫プロが初めて作ったアニメーション作品ですが、街角のポスターを主役にした実験的な作品でした。

 

主人公の一人称視点で画面が上下する「ジャンピング」(1984)、わざと古い時代のアニメーションのように傷だらけのフィルムを再現した「おんぼろフィルム」(1985)、ディズニー的な柔らかい動きのフル・アニメーションとリミテッド・アニメーションの両方の手法を用いた「森の伝説」(1988)など。アニメーション表現の限界を見極めようとでもするように、実験アニメーションにのめり込んでいたといいます。

 

手塚「何ひとつ満足した作品がないんです。いつでも次の作品こそ、自分が満足する作品だという期待みたいなものが残るんです」

 

漫画だけでなくテレビアニメも劇場用アニメも実験アニメも手掛け、これだけ多くの作品を残したのは、手塚が飽くなき挑戦者だったからなのですね。それでも満足した作品がないとは、おそれいります!

 

1989年、手塚治虫は胃ガンのためその生涯を閉じます。享年60歳でした。最期の言葉は

 

「頼むから仕事をさせてくれ」

 

だったそうです。

 

そうそうたるメンバーの、虫プロから独立したクリエイターたち


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虫プロ出身のアニメーターたちは、後に独立し、さまざまな作品を残しています。そのタイトルを並べるだけでも、どれだけ虫プロが日本のアニメ界に大きな影響力を与えてきたかが分かります。

 

山本映一監督「宇宙戦艦ヤマト」(1974)

杉井ギサブロー監督「どろろ」(1969)「銀河鉄道の夜」(1985)、「タッチ」(1985)

富野由悠季監督「機動戦士ガンダム」(1979)

出崎統監督「あしたのジョー」(1970)、「エースをねらえ」(1975)

高橋良輔監督「太陽の牙ダグラム」(1981)、「装甲騎兵ボトムズ」(1983)

丸山正雄プロデューサー(現・MAPPA代表取締役会長)「パプリカ」(2006)、「サマーウォーズ」(2009)、「この世界の片隅に」(2016)

 

2019年、「どろろ」が新作テレビアニメとして帰ってきた!

 

「どろろ」は、1967年~1969年に手塚治虫が描いた漫画です。暗い設定と世界観が受け入れられず、なかば未完のまま終わっています。

 

1969年に杉井ギサブロー監督のもとで「どろろ」はテレビアニメ化されました。当時のテレビはすでにカラー放送が始まっていましたが、「どろろ」はモノクロフィルムです。

 

放送枠が毎週日曜19時30分~20時と夕食どきだったため、子どもが観るのにあまりに凄惨なのは──というスポンサーからのクレームに配慮してモノクロにしたのです。監督は暗く重い世界観をていねいに作っていたのですが視聴率は低迷し、路線変更を強いられました

 

その結果、14話~は、おっちょこちょいな「どろろ」を主人公に明るい内容で作られ、原作とは異なるエンディングを迎えます。

 

「どろろ」は、たしかに暗い内容で、子どもには受け入れられなかったようですが、多くの人の記憶に残る作品でした。作家の大沢在昌が、手塚作品のなかでもっとも好きな漫画だと語り、漫画家・小林よしのりは「魍魎戦記MADARA」の主人公の設定で「どろろ」の主人公「百鬼丸」をモチーフにしています。

 

永井豪をはじめ多くの漫画家がリメイク作品を描いていて、ノベライズもされ、PS2でゲーム版が発売され、2007年には実写映画化、さらに舞台化もされる予定です。いかに多くの方に愛されてきた作品かが分かりますね!

 

2019年版のテレビアニメでは、放送枠が子ども向けではないこともあり、原作のもつ暗くハードな世界観を忠実に再現しています

 

しかも主人公の百鬼丸もどろろも現代的な美しい顔立ちで、アートワークも高い水準で描かれています。ようやく手塚治虫が描きたかった世界をテレビアニメでつくることができる、受け入れられる時代になったということでしょう。

 

あいびー

2019年版「どろろ」の制作は、虫プロ出身の丸山正雄氏が代表取締役会長を務めるMAPPAと手塚プロダクション。気合を入れて作ってくれるのは必至です。毎週の放送が楽しみでしかたがありません!

 

手塚治虫をもっと深く知りたいあなたに。

▼手塚治虫オフィシャル Tezuka Osamu Official Site

▼手塚治虫記念館 Tezuka Osamu Memorial Hall

まとめ

「漫画の神さま」手塚治虫の作品「どろろ」がテレビアニメでリメイク放送されているのに合わせ、手塚治虫を知らない世代の方にもっと知ってほしいと思い、記事をまとめてみました。

 

改めて手塚治虫というクリエイターの尽きない泉を覗きこんだような気がしました。ほんとうにすごい人です。しっかり自分の描きたい世界があるけれど、そこは商業主義も分かっていて、求められる読者や視聴者に合わせてどんなふうにも作ることができたというのも素晴らしい。とびきりのクリエイターでありながら、理想を現実に落とし込むバランス感覚に優れた方だったようです。

 

なかば打ち切りで終わった漫画の「どろろ」途中で路線変更を迫られた1969年版テレビアニメの「どろろ」。それから50年を経て、ようやく手塚治虫が描きたかった「どろろ」をテレビアニメ化できる時代になりました。やっと時代が追いついたということでしょう。

 

2019年版「どろろ」を楽しみにしている方に、原作者である稀代の天才・手塚治虫のことを、もっともっと知っていただきたいと思います。

 

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