TVアニメ「蟲師」第11話「やまねむる」。動物でもない植物でもない、生命の原初に近い存在「蟲」。「蟲」を巡る奇譚を集めた「蟲師」の世界の詳細あらすじと感想・考察を。


第11話/蟲には蟲の、人には人の、身の丈に合った生き方がある

出展/TVアニメ「蟲師」

 

第十一話

やまねむる

yama nemuru

 

日本には四季がある。芽吹き花開く春、緑濃く繁茂する夏、実りと恵みの秋、白く眠る冬──あたりまえに毎年繰り返される自然の営みが、じつはものすごいことなんだと再認識させてくれる。対して人は小さく弱く、愚かで、そして温かい。今回は、そんな物語だ。

 

山に、穴が開いていた。

 

物語は、ギンコのこの短い一言から始まる。紅葉で赤茶色に染まる遠くの山には、きれいな円い穴が開いている・・・。その奇妙な光景を眺めながらギンコが蕎麦をすすっていると、旅人が二人来て、感嘆の声を上げた。

 

旅人「はぁ~さすが霊峰。見事なお姿だねぇ」

 

いわゆる「峠の茶屋」といった場所なのだろう。旅人に気を取られたギンコが山に視線を戻すと、穴はもうなくなっていた。旅人たちに穴は見えていなかった様子なので、どうやら蟲がらみの現象のようだ。

 

山のヌシを信奉する山の民

▲秋の山は強い精気に満ちている 出展/TVアニメ「蟲師」

 

季節は晩秋。柿が実り、木の葉が黄色く色づいている。そんな山村にやってきたギンコは、村人が寄り集まっている家の戸口から中に声をかける。

 

ギンコ「山の事で、何かもめ事ですかな?」

 

家の中には多くの男たちが集まり、何やら難しそうに話し合っているところだった。ギンコが「蟲師」と名乗ると、男たちがざわめいた。「長!」と促され、一人の老人がギンコの前に膝をついた。

 

村長「ならばぜひ、お頼みしたい事がある。この山深くに住む、ムジカという蟲師を捜してはもらえまいか。この山には、代々、山のすべてを知る”ヌシ様”がおられます。ムジカ殿は、ヌシ様の意向を唯一知る人なのです。我々は、事あるごとに指示を仰いでおりました。これも、彼の教えなのですが、収穫期のこの時節、我々が山深くまで入る事は禁忌となっておるのです。ですが、ムジカ殿が庵から姿を消して久しく、禁を破り数人が山へ捜しに入ったところ、熱病に冒され、命を落としかけたのです」

 

──と、いうことで。ギンコはムジカという蟲師を捜しに一人で山に踏み入った。山は大木が苔むして、金色の何かが地面から立ち上っているように見える。「ふぅ」と、ギンコは息をつく。

 

ギンコ「ものすごい精気だ。甘いような苦いような、むせ返り、皮膚にまとわりつく匂い。ここは、光脈筋だ。生命の川の流れるところ。まして今は、実りの時期。普通の山でも精気は増す。不用意に入れば精気にあてられ気が惑う」

 

山ぶどうや柿の実のようなものが、あちこちに実っている。豊かな山だ。「甘いような苦いような、むせ返る匂い」──これが光酒の匂いなのだろう。背景に柿の実が描かれているからか、何となく、熟れすぎて柔らかくなった柿の匂いを思った。

 

ここは山里で、少しは田畑もあるだろうが、人々はほとんど山の恵みに頼った生活をしている。木を斬り、狩猟をして暮らしている。彼らは、あたりまえに「山のヌシ」を信奉している。山には「山のヌシ」がいて、「山のヌシ」の決め事に従って生きている。

 

日本には八百万の神さまがいると言われるが、その最高位に位置するのが「山の神」。「山の神」は、国創りの神話に登場するイザナミノミコトにも通じる女神だ。「山の神」は禁忌に厳しく、この日は山に入ってはいけないという決まり事がいろいろある。今回の物語は、この「山の神」信仰をベースにした表現が随所でみられる。

 

ムグラノリの術

▲多数のムグラがギンコに取りつく 出展/TVアニメ「蟲師」

 

ギンコは山で具合悪そうに倒れている少年を見つける。少年は、自分はムジカの弟子だと名乗った。師匠を捜しに山に入り、精気にあてられたのだろう。ギンコは「こいつを奥歯にはさんでろ」と、黒い丸薬を渡す。言われた通りにした少年は、「うぇっ」と、そのまずさに舌を出す。

 

──たぶん、正露丸を知っている人なら、このシーンであの臭いを思いだしたのでは? わたしはやったことがないが、歯痛のときに正露丸を歯に詰めておくと痛み止めになるとか聞いた。あれを噛んだら・・・そりゃあぁいう顔になる。

 

ギンコは靴を脱ぎ、盃に何かを満たして周りに置き、地面に座り込んだ。「ムグラノリ」という術を使い、ムジカの居場所をつきとめようというのだ。ギンコが、こういう術を使うのは珍しい。

 

ギンコ「ムグラという山の神経のような蟲がいる。そいつらに意識を潜らせて草木の中を走ってくる」

 

少年にそう説明して、ギンコは地面に手をついた。するとギンコに黒いつる草のようなものが集まってきて、身体じゅうに巻き付いた。ムグラは、脳を構成する神経細胞(ニューロン)のような形をしている。そんなイメージなのだろう。ちなみに「葎(むぐら)」とは、「密生し藪をつくる草」をさす言葉。「ムグラノリ」とは、漢字にすれば「葎乗り」だろう。

 

ギンコの思念はムグラに乗り、山のすみずみを走る。

 

ギンコ「いない。こっちじゃない、回り込め。山の反対側へ──いた! こっちを見た!」

 

二つの目がこっちを見たかと思ったら、ギンコは「うわっ!」と呻いた。ムグラを強制的に引きはがされたのだ。

 

ギンコ「・・・なるほど」

 

ギンコは背負子を手にすると、「行くぞ、こっちだ」と、少年を伴い歩き出した。しばらく行くと遠くから、ゴーン・・・と鐘の音が響いた。

 

やがてギンコと少年は、崖下に老人が横たわっているのを見つけた。それが捜していたムジカだった。

 

山のヌシを張る男、ムジカ

▲ムジカは「山のヌシ」そのもの 出展/TVアニメ「蟲師」

 

ムジカを助け出し、3人は山奥にあるムジカの庵にたどり着いた。食事をすませると、少年は疲れたらしく眠ってしまった。ギンコとムジカは酒を酌み交わす。

 

ムジカ「この山は、自分の庭ぐらいに思っておったが、あんな所で足すべらせるとは、さすがに年をとった。・・・そろそろ任を離れるべきなのかもしれんな」

 

ギンコ「山のヌシの・・・ですか。侵入者からムグラを引きはがしたりできるのは、本物の土地のヌシか、ヌシの術を張っている人くらいでしょ。この山の異変は、ヌシであるあなたが崖下から動けず、術の更新ができずにいたせいだ」

 

村人からは、ムジカは「山のヌシ」の意向を村人に伝える蟲師だと聞いていたが、実はムジカ自身が「山のヌシ」だった。ムグラノリの術をしていて、ムジカを見つけたと思ったら術をはがされたとき、ギンコはここまでわかっていたのだ。

 

ギンコ「しかし、人がヌシをやるのは、辛いと聞く。余程のわけでも?」

 

ムジカ「気づいておるだろうが、ここは光脈筋でな。山の精気をある程度おさえる正統なヌシはちゃんとおった。だが・・・里の者が誤って殺してしまったのだ」

 

そうすると川は酒のような匂いを放ち、草木は熟れすぎて腐ってしまったという。強い精気を抑制できなくなった結果だろう。ムジカもかつてはギンコのように旅の蟲師をしていたが、困った村人たちのため、ここでヌシをやることに決めたのだ、と話した。

 

ギンコ「では、その子を次のヌシに?」

 

ムジカ「あぁ、そうだ」

 

ギンコ「山歩きはずいぶん達者だった」

 

ムジカ「そうだろ。山から生まれて、山に育てられたのだからな」

 

ギンコ「んん?」

 

意味がわからずにいるギンコにムジカが説明を加える。この山から流れ出る水のおかげで村の女は子だくさんで、皆を育てることができずに山に捨て子をする。獣に食われず生き延びた少年を、この庵でムジカが育てた。それがこの少年だ。村の両親が手元に残した子どもたちは皆、薄命だったので、山に捨てた自分たちの子が生きていると知った両親が、1年前に少年を引き取ったそうだ。

 

ゴォォォ~ン・・・

 

また遠くに鐘の音が響いた。(こんな夜中にも?)と、ギンコが不審に思う。

 

ムジカの弟子の少年、名前は「コダマ」というのだが、一度は口減らしのため山に捨てられ、この子の生存を知った親が他の子たちが亡くなったのでまた引き取ったという・・・。なんともコダマとしては複雑な心境だろう。だから人一倍、育ての親のムジカを心配しているのだ。

 

普通なら、わざわざコダマをこんな境遇にする必要もない。蟲が見える性質の村の子どもということにすれば済む。だからムジカの弟子になったのだ、と。わざわざコダマをこんな境遇に置いたということから、作者は「山のヌシ」と「山の神」を同一視していることがよく分かる。

 

「山の神」は出産も司る女神とされ、1年に12人の子どもを産むといわれている。また古来、山は神聖な場所であると同時に死者の住まう場所ともみなされてきた。死者の魂は山に宿り、里の者たちを守護してくれると考えられてきた。そのため「先祖の霊」と「山の神」が混同されているところもある。口減らしに捨てた子どもの霊すら、自分たちを守ってくれる「山の神」となるという、一見矛盾した考えすらあった。

 

この辺りのことを含ませたくて、「コダマ」はこんな可哀想な境遇にされたのだろう。

 

「ひとつ訊く。おまえ、もうヌシの術は習ったのか?」

▲ムジカが育てた少年「コダマ」 出展/TVアニメ「蟲師」

 

翌朝、ギンコとコダマは山の庵を出て、村に帰ることになった。

 

コダマ「じゃ、里の皆に知らせに帰るけど、次に僕が来る時まで無理しないでよ?」

 

ムジカ「わかっとる。おまえこそ、入山の禁が解けてから来るんだぞ」

 

コダマがこれほどムジカを心配するのも、ムジカが育ての親だからだ。そしてムジカは「入山の禁が解けてから」来るように言う。最初の方で村長が「収穫期のこの時節、我々が山深くまで入る事は禁忌となっておるのです」と言っていたので、次に来るのは冬になってから──または雪に閉ざされた冬を越えた来春か。

 

下山し始めて、ふと、コダマはムジカを振り返る。

 

コダマ「ムジカ、僕は今も、ムジカの弟子だよね?」

 

念押しする顔は、おずおずと少し心配そうな表情だ。ムジカが「勿論だ。おまえは今に立派な蟲師になるぞ」と言うとコダマは、嬉しそうに頷いた。

 

村に戻った晩、夜中にまたあの鐘の音が響いてギンコは目が覚めた。音が大きくなってきているので、これはおかしいと外に出ると、コダマが走ってきた。

 

コダマ「ギンコさん。あの音、変だよ。この近くに鐘なんてないし、父さん達、何も聞こえないって言うんだ。何かの蟲なのかな?」

 

コダマの言葉にギンコは顔色を変えた。

 

ギンコ「ひとつ訊く。おまえ・・・もうヌシの術は習ったのか?」

 

コダマ「ヌシ?」

 

コダマがまだヌシの術を習っていないと知ると、ギンコはまた山に入っていった。コダマには「家、帰って寝直せ」と言いおいて。夜の山道をギンコは歩く。

 

ギンコ「山が、静まり返っている。アレが、そこまで来てるんだ。ジジイ、とんでもねぇもん呼んでやがった」

 

ギンコには、すっかり状況が飲み込めたようだ。

 

「ヌシの座には、あのようなものが在るべきなのだ。人には辛い」

▲「何かあんだろう! こんなのよりゃよぉ」 出展/TVアニメ「蟲師」

 

ギンコがムジカの庵にたどり着いてみると、庵にムジカはいなかった。鐘の音の方角から山頂かとあたりをつけて登ってみると、そこにムジカが座っていた。

 

ムジカ「おお、まだ何ぞ用か?」

 

ギンコ「あんた、足にケガなんてしてないな。ずっと人目につかないあの場所で、”クチナワ”を呼んでいたんだ」

 

ムジカ「何を言っとる?」

 

ギンコ「近づいてくる鐘のような音。あれはクチナワの鳴き声だったんだ。ヌシ喰いの蟲。山のヌシ、沼のヌシ、そういうもんを喰って──ヌシに取って代わる蟲」

 

──つまり、ムジカはヌシ喰いの蟲”クチナワ”に自分を食べさせ、この山のヌシを引き継いでもらおうとしているのだ。コダマに次のヌシをさせるつもりだと言ったのはウソだった。事ここに至り、もはやムジカも隠す気がなくなった。

 

ムジカ「・・・そして、その場所に安定をもたらす蟲。こうするのは、俺の使命だ。邪魔せんでくれ。あれは立派なヌシだった。巨大な老猪の姿をした・・・美しいヌシだった。俺が悪かったのだ。あんな事は口にしてもならんかったのに」

 

ムジカの説明など聞いている暇はなかった。クチナワが近づいている。

 

ムジカ「ヌシの座には、あのようなものが在るべきなのだ。人には辛い。コダマに伝えたのも、生きてゆくための知恵だけだ」

 

ギンコはあたりに液体(酒かな?)を撒き、術の準備を始めた。ムジカの中にいるムグラを引きはがして、もうヌシでなくそうというのだ。

 

ギンコ「あんたからムグラを引きはがす」

 

ムジカ「無駄だ。それに出来たところで他にいい術(すべ)などない」

 

ギンコ「何かあんだろ! こんなのよりゃよぉ」

 

ギンコが怒鳴る。ギンコは、一カ所に留まり村の者に慕われるムジカの生き方を少し羨ましく思っていたのだ。それを、こんな終わり方してほしくないのだ。

 

ギンコ「なのに、一人で勝手にこんな死に方、決めてんなよ!」

 

山沿いの空を巨大なクチナワが登ってゆき、ギンコの目の前で、ムジカの姿がかき消えた。

 

ムジカが山のヌシになった理由

▲ムジカが里に住める方法を、朔がじっと聞いていた・・・ 出展/TVアニメ「蟲師」

 

その後ギンコは山頂で気を失い、後を追ってきたコダマに助けられた。コダマの言うには、ムジカだけでなく庵もなくなっていて、村の誰もがムジカのことを覚えていないそうだ。

 

ギンコ「クチナワに喰われる。ヌシの交代ってのは、そういう事なんだ。その時、山にいた者にだけ記憶は残るようだがな・・・」

 

コダマもすっかり、何が起きたのか理解している。

 

よく見ると、ギンコの周りに蟲払いの薬が炊かれている。コダマが調合したのだ。「大したもんだ」とギンコが感心すると、「俺はムジカの弟子だもの!」。コダマは涙をこらえて、そう答えた。

 

村で目を覚ますまでの間、ギンコは自分の記憶にない夢を見ていた。

 

まだ若かった頃の、旅の蟲師をしていた頃のムジカが山里を訪れる。村人は、ムジカを歓迎した。ムジカのための宴席で村人は、「なぁムジカ、おまえさんこの里に住んではくれんのか。この里にゃおまえさんが必要だよ」と頼む。光脈筋にある山では、定期的に奇妙な事が起きるからだ。

 

しかしムジカはギンコと同じように蟲を寄せる体質で、同じ場所に住むことができないと断る。酒のせいもあるだろう、そこでムジカはついこう言ってしまった。

 

ムジカ「ここに俺が住めるとすれば、ひとつだけ。山のヌシを殺して喰って、俺がヌシになる事だ。そうすれば俺の意思で山に蟲を寄せ付けなくする事もできる」

 

その話を朔(さく)という娘がじっと聞いていた──。

 

ある日ムジカは、自分の背負子に入れてあったヌシの通り道の地図と毒薬が、なくなっているのに気がついた。ちょうどそこに、玄関から朔が入ってくる。朔は手に赤黒い塊を持っている──。

 

ムジカ「朔、どこ行って・・・」

 

「あぁ、牡丹、分けてもらったんだ。すぐ鍋にするから、待っててな。うんとうまいの作るから、だからずっとここにいてくれな・・・」

 

──これが、ムジカが山のヌシになった経緯だった。自ら望んだわけではないが、既に朔がヌシを殺してしまったのなら、他に方法がなかったのだろう。ヌシをなくせば、この山の水は発酵し、草木も熟れすぎ腐ってしまう。もうだれもこの山里に住めなくなってしまうから。

 

その後、朔は早死にしてしまい、二人に子どもはできなかったようだ。こう考えるとコダマは、年老いたムジカにとりどれだけの慰めになっていたことか。

 

書くまでもないと思うが「牡丹」とは、イノシシ肉をさす言葉だ。

 

ムジカが取れる他の可能性

▲山頂にゆったり居座るクチナワ 出展/TVアニメ「蟲師」

 

やがて回復したギンコは山里を離れる。ギンコは蟲を寄せる体質で、同じ場所に居続ければ、辺りを蟲だらけにしてしまうから。

 

草木はすっかり葉を枯らし、山は冬のとば口にいる。「あぁ寒ぃ」。ギンコが身震いすると、チラチラ白いものが舞ってきた。ふと、あの山頂でムジカに放った自分の言葉が蘇る。

 

ムジカ「他にいい術など・・・」

 

ギンコ「何かあんだろ! こんなのよりゃよぉ」

 

そこでギンコは足を止め、ムジカに言った自分の言葉に、自分で答える。

 

ギンコ「──ないねぇ。残念ながら」

 

少しだけ、ムジカができる他の方法を考えてみよう。

 

もしもギンコが、ムジカの中にいるムグラを引きはがすことができたなら。ムジカはもう山のヌシではなくなる。そうすればクチナワに喰われることはない。その代償に、ヌシを失った山は光脈筋の影響をモロに受け、腐敗し、もう誰も山里で暮らすことはできなくなる。

 

もしもムジカが、コダマを次代の山のヌシに据えるなら。コダマは、かつて朔がやったことを再現しなければいけない。つまり、ムジカを殺しその肉を喰わねばならない──それは・・・コダマには無理だろう。しかも蟲師として長い経験のあったムジカですら、人が山のヌシをやるのはきつい。そんな仕事を我が子のようなコダマにさせるのも、ムジカにはできなかったことだろう。

 

ただしどちらの方法も、もうクチナワは既にムジカを見つけていて、そんな時間的余裕などなさそうだったが──。落ち着いて考えてみれば、やはりムジカの言った通り、他にいい術などなかったのだ。

 

目を上げれば、山頂に巨大な白蛇がとぐろを巻いている。ムジカに代わり、山のヌシになったクチナワだ。ちなみに”くちなわ”とは蛇の別称。蛇が朽ちた縄のように見えることから、こう呼ばれるようになったそうだ。

 

ギンコ「見事なもんだ。人の気など知りゃしねぇ。なぁ、クチナワよ」

 

クチナワは欠伸でもするように一声上げると、ゆっくり目を閉じた。

 

人がやるには辛い仕事だが、クチナワにとって山のヌシなど造作もないことで、のんびり欠伸でもしながらできる簡単な仕事なのだ。最後のセリフは、その力量の差にギンコ完敗といったところだろう。

 

タイトルの「やまねむる」は、クチナワが山のヌシに座ることにより、山が落ち着きを取り戻した──といった意味が込められているのだと思う。

 

この先ずっとクチナワは、この山をしっかり制御していくだろう。春夏秋冬1年の営みを、安定して行っていくだろう。それこそ欠伸でもしながら。それじゃ人であるムジカのしてきたことは何だったのか・・・。ただ愚かなことだったのかも知れない。たしかにそうかも知れないが、それでも朔の想いに答えたムジカの行動は温かい。コダマを跡継ぎにしなかったところも温かい。

 

そんな甘さや温かさがあるからこそ、人は人であり、蟲とは違う。

 

やや辛い終わり方ではあるものの、人であり続けたムジカの葛藤と決意が温かく胸をつく。同時に自然への畏怖が強くなる。今回も良い物語だ。

 

pic up/老猪は「もののけ姫」の「乙事主」・・・だよね?

▲ムジカの前代の山のヌシ 出展/TVアニメ「蟲師」

 

気づいた人も多いだろうが、ムジカの前の山のヌシとしておぼろに描かれている老猪の姿・・・これ、どう見ても「もののけ姫」の「乙事主」だ。しかも、ムジカの弟子の少年の名前は「コダマ」。

 

調べてみると、「もののけ姫」は1997年公開作品。そして、「やまねむる」は2000年発表作品。年代順から言って「蟲師」の作者・漆原由紀が「もののけ姫」からインスパイアされて本作「やまねむる」を描いたのだとわかる。

 

「蟲師」第1話「緑の座」が1999年発表ということを考えると、「蟲師」という作品それ自体が「もののけ姫」の影響を受けて創作された可能性もある。

 

宮崎駿は「もののけ姫」で、人の愚かさと温かさ、そして人知を超えた自然の力強さを強烈に描いてみせた。「蟲師」も似たようなテーマをベースにしているのは確かだ。しかし「蟲師」の方が人の営みにより近い。現実の延長として受け入れやすく、親しみやすい。わたしには「蟲師」の方がしっくりくる。

 

pic up2/他に類を見ない、多様なエンディング

▲珍しく物語が終わる前にクレジットが入る 出展/TVアニメ「蟲師」

 

「蟲師」のエンディングは、それぞれの回により異なる。多くは暗転して白文字のスタッフクレジットが流れるが、今回は珍しくギンコの後ろ姿にかぶせてクレジットが入る。やがてクレジットが途切れ、背負子を地面に置いたギンコは振り返って山を見上げる。

 

ギンコ「見事なもんだ。人の気など知りゃしねぇ。なぁ、クチナワよ」

 

そう呟いたギンコの横顔は、少し笑っているようにも見えた。

 

「蟲師」にはED曲も、曲の背景を彩るアニメーションにも決まったものがない。いつも余韻を十分に引き出せるよう工夫された凝ったつくりだ。著名なミュージシャンを起用して話題性を狙うのではなく、ただただ作品の質を真摯に追求していることが、この辺りにもうかがえる。こうした隅々まで張り巡らされた、作り手の作品へのこだわりが、「蟲師」が何年たっても色あせず多くの支持を集め続ける理由だろう。

 

本当に稀有なアニメ作品だと思う。

 

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